先日、事務所の弁護士・事務局全員で、毎年恒例の事務所研修へ行ってきました。新人の私は初めての参加です。目的地は、長野県阿智村。「日本一の星空」として有名な場所ですが、今回は、星空ではなく、満蒙開拓の話を少しだけ。
研修の予定表を見ると、「満蒙開拓平和記念館」の文字がありました。長野県になぜこのような施設があるのだろう、と思いつつも、その記念館を訪れました。
満蒙開拓とは、1932年の満州事変をきっかけに建国された日本の傀儡国家である満州国に、現地の治安維持やソ連による侵攻への備えのため、日本国民を入植させる一連の政策をいいます。当時、世界恐慌の影響により、日本の一大輸出品であった生糸の輸出が急激に落ち込み、長野県のような養蚕業を主な収入源としていた農村部は、特に大きな打撃を受けました。そこで、日本は、農村の経済の立て直し及び人口調整という狙いもあって、世界恐慌で打撃を受けた農村部の人々を満州国に送り出すことを国策として推し進めたのでした。
記念館では、初めのフロアの壁に、満州への移住を盛んに奨励するポスターが並んでいました。次のフロアでは、希望と期待に満ち溢れた表情で「希望の大地」へと向かう人々の顔がスクリーンに映し出されるなど、当時の熱気がよく伝わってきました。人々は、政府のプロパガンダもあり、「満州では素晴らしい生活が待っている」と信じて疑わなかったことでしょう。
自治体単位で人数を競うように移民を募り、国や地域を挙げて、この政策は順調に進んでいきました。しかし、そんな彼らに待っていたのは、悲惨な結末でした。1945年8月9日、ソ連軍が満州を囲むように3方向からの侵攻を始め、満州国は全域が戦場と化しました。ソ連軍に加え、日本に恨みを持つ現地の人々からの襲撃もあり、満州へ渡った彼らは、何の支援もないままに悲劇の逃避行を続けることとなりました。逃げ場を失い、集団自決を選んだ人々も少なくなかったそうです。最終的に、満州へ渡った移民約27万人のうち、約8万人が犠牲になりました。実は、満州にいた日本軍は、内陸部にまだ多くの日本人が残っているにもかかわらず、早期に朝鮮半島付近まで防衛ラインを下げ、内陸部の日本人を見捨てていたのでした。戦後も、日本政府は、満州に残った日本人に援助をすることはなく、彼らは日本へ帰国する手段がなかったそうです。逃避行の中、現地の人に預けられたり、売買された子どもは、中国残留孤児として、その後も異国の地で過酷な運命を辿ることとなるのです。
政府は、国策として満蒙開拓を推し進めたにもかかわらず、満州の地に残された人々への支援をせず、その責任も取ろうとしませんでした。国策に乗せられ、多くの若者を満州へ送り出してしまった農村の人々もまた大変苦しみました。そのような人達の思いも、この記念館ではしっかりと感じ取ることができます。
実は、満州国への移民を全国で一番多く送り出したのが、阿智村のある長野県です。様々な事情もあって、今まで満蒙開拓の歴史が語られること少なかったですが、歴史を語り継ぐため、2013年、阿智村にこの記念館が開館しました。
我々が、満蒙開拓の悲惨な歴史から学べることは何でしょうか。満蒙開拓の移民を奨励するポスターなどと同様に、最近、政府は、マスメディアやSNS、キャラクターなどを利用して、特定の政策に対するプラスのイメージを作り、政策を前へと進めようとする傾向が見られます。我々国民の方も、雰囲気に流され、「何も声を上げない」という形で、そのような政策を事実上追認してしまうことが多いです。しかし、政策が失敗したときに、政府はその責任を取ってくれるのでしょうか。政府が積極的に推進する政策であっても、失敗した際、その責任を取ってくれるとは限らないことは、歴史が証明しています。雰囲気に流されず、自分の頭で考え、そして、政策に対して何らかの意思表示をする。それが現代に生きる我々が、満蒙開拓の悲惨な歴史から学ぶべきことではないでしょうか。
記念館の展示は、来館者が学びやすいよう様々な工夫がなされていますし、展示の内容自体も非常に勉強になります。みなさんも是非、満蒙開拓平和記念館を訪れてみてください。
(弁護士 鈴木 雄希)