東日本大震災から十年。

 あの日、裁判所に向かって歩いていると、突然、頭上の電線が激しく揺れだしました。最初は「風が強いな」と暢気に思っていたのですが、建物から人々が飛び出してきて大きな地震だと気付きました。事務所に戻ると、一部の本棚が倒れかけており、大量のファイルが床に散乱していて。事務所のテレビをつけると、最初は地震の揺れによる各地の被害が映し出されていましたが、そのうち押し寄せる津波の映像一色となりました。

 私は、司法修習生時代、岩手県盛岡市に住んでいました。その時訪ねた宮古、大船渡、釜石、石巻、気仙沼等の三陸沿岸の町々が津波で変わり果てていく映像は、とても恐ろしく、現実のものとは思えませんでした。多くの命が失われました。あまりにも多くの犠牲者が出たために、それらの人々は「死者・行方不明者○人」という数でくくられてしまうのですが、その一人一人に家族や友人や関係者があり、それまで生きてきた日々に楽しいことや悲しいことがあり、明日や明後日に様々な予定があり、遠い将来に目標があったのだろうと思うと、胸が痛みます。

 東日本大震災から2年後の夏、宮古市を訪れ、三陸鉄道にも乗車しましたが、宮古市内では建物の基礎を残して草地となった土地が続き、また、三陸鉄道の車窓からは多くの瓦礫が高く野積みされたままの場所が見えていました。復興とは程遠い印象でした。十年経った今でも、住宅や産業の再生が進まず、人口が流出し、過疎化にさらされている津波被災地も多いと聞きます。

 そして、東日本大震災直後、私たちの心を一層重苦しく押し潰したのが、東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故であったろうと思います。2011年3月12日から15日にかけて、1号機、3号機、4号機が次々と水素爆発。15日には2号機から最大量とされる放射性物質が放出。放出された大量の放射性物質は風に流され、雨に混じって地上に降り注ぎ、各地を汚染。事務所のある東葛地区(千葉県北西部)も放射能汚染が深刻なホットスポットとなりました。福島第一原発周辺の住民のみならず、福島県全域や東北地方、北関東地方の多くの住民が、住み慣れた土地からの避難を余儀なくされました。

 原発事故から十年経った今も、帰還困難区域とされた場所に住んでいた人々は、故郷に戻れないままです。避難指示が解除された地域も、既に自宅が住める状態ではなかったり、生活インフラが整っていなかったり、避難先で生活基盤が出来ていたり、被曝の危険性を懸念したり等々、様々な事情で帰還が困難となっています。福島第一原発の廃炉作業も遅々として進んでおらず、未だに原発事故は現在進行形です。

 原発事故によって日本各地に避難した人々が、国と東京電力を被告として損害賠償金の支払いを求める裁判も各地で続いています。国は、国策として原発建設を推し進め、原発安全神話を広め、今回のような過酷事故を防ぐための指導・監督を怠ってきたのですから、当然ながら原発事故に責任を負うべきであるし、国の責任が明確に断罪されないままでは、再び同じ過ちを繰り返します。福島第一原発事故を教訓に脱原発に舵を切る国もある中、この国の政府が原発再稼働や新規原発の建設、原発の輸出に拘り続けるのは、原発事故被害を真剣に捉えておらず、あの事故から教訓を得ていないためとしか思えないからです。しかし、現在、高等裁判所の判決は、国の責任を認めるものと認めないものに別れており、司法が国の過ちを鋭く指摘・断罪できるのかの正念場です。

 この国は、福島第一原発について「アンダーコントロール」だと虚偽のプレゼンを行い、「復興五輪」と言葉を飾ってオリンピックを招致しました。でも待って下さい。どの辺りが復興五輪なのでしょうか?東日本大震災の復興五輪を東京で開催する意味はあるのでしょうか?そもそも、福島第一原発は「東京電力」の施設です。東京電力管内地域のための電力を、東北である福島で発電し、結果、原発事故のリスクを福島に負わせたのです。その東京が「復興五輪」の開催都市だというのは、皮肉にしか聞こえません。

 東日本大震災から十年。津波被災地も原発事故被害地域も「復興」へ進んで欲しい。でも、そこで生活する人々の真の復興とは何なのか、私たちはどう向き合っていくべきか、重い宿題はこれからも続きます。私たち個人は私たちの出来ることを続けるしかない。でも、国は「復興」をダシにするのではなく(「復興五輪」は利権の臭いがプンプンしますね)、真摯に被害と向き合う義務がある。そして、結局、国や行政の主(あるじ)は私たち国民だということも忘れてはならないと思います。被害と真摯に向き合わない国の姿勢は、国民が作り出しているとも言えるのではないでしょうか。

 東日本大震災から十年。震災はまだ終わっていません。

 (弁護士 宗みなえ)